2013年2月4日月曜日

母の体調とエンディングノート

母が最近調子が悪い様子で、私の運営しているデイサービスセンターにも行ったり行かなかったりと、やはり体調がすぐれないらしい。

病院を受診しいつもの糖尿の検査もしたりとしていたのだが、どうも変な事(娘のころの話を言い出したり)を言っているので、脳の検査も必要となった。

結局、硬膜外出血で脳圧が上がっているので緊急に手術をしていただくことになった。一ヶ月ほどの入院となりったが、認知症も少しづつ出てきており帰りたいの連発。
しっかりと糖尿の管理もされることになり、インシュリンの自己注射も始まった。これが自分でできるわけではないので、私たちがやってあげなくてはならなくなった。ちょうど私が暇で良かった。毎朝晩と種類とシリンジの単位数がきまっていて、これでは年寄りには無理だと痛感。
以前、病院の検査室で血糖検査の精度と正確さを上げるための検査技師スタッフの中でその担当をしてきたのだが、肝心の患者さんが血糖コントロールの意味(食事療法や運動も含めて)を理解していない(できない)状態にある時には家族がその役を負いきれるのか?実際に病んでいるのは本人なのだが、まわりの家族も居ない場合は訪問看護などもあろうがとても家族ほどやりきれるものではない。そんなことも思いつつ15年も前に辞めた技師魂?か母にはしっかりとコントロールしてあげようとせっせとインシュリンを定期的に打って上げた。

認知症の薬も始まって、これも効果のある人とそうでない人と分かれるようだが、薬効を見ながら処方してくださり、たくさんの様々な種類の薬が三度の食事にいろいろな量で出され、これも困惑気味というか理解ができないらしい。
日付時間の概念もとんと分からなくなっていることもしばしばで、これまでも管理していかなくてはならなくなった。

人は生きていけばいつかは程度の差はあろうがそうなっていくのだと50歳を過ぎて痛切に思うようになった。その時に依拠できる配偶者も含めて家族がいるのか?
今、介護施設の運営をしていて、そういうことができづらい家庭環境にあるお年寄りが多いことに重ねて見えてしまう。

まだ、施設に入れた方々は良いほうで、介護保険が始まったころは「公的介護」と称して家庭から施設介護へとすすんだが、今はまた(経済的に国の財政が「もたない」との理由で)家庭に戻され施設に入れず、看る家族もいなかったり、看れなかったりの家族が家庭にもどされ(とどまらされている)親の面倒を看ることができずにいる方々をよくみかける。すべてが円満には行っていない家庭環境がモロ露呈する人間模様にも遭遇してきた。

人はどうやって生まれ(生まれて来たときはまだ親がいるだろうが)、死ぬときにはどうやって逝くのかその時までは意識がどの程度正常に機能しているのか。近年エンディングノートという、遺書のように自分がもしもの時に備えて備忘録のようなものをつけていくことが奨励されていて、我が施設でも講演会を行ったが、聴衆はかなりのご高齢の方々ばかりであった。私はむしろ定年をもうじき迎える、まだ体力的にも動けたり、脳機能も健全に働いているときにこそ聴いておくべきであると思っている。まだ間に合うから。

2012年12月9日日曜日

ウィーンでのコンサート







さて夜のコンサートですが、夕飯をコンサート会場になる宮殿で摂り午後8時くらいから始まりました。夕食はワインを飲みながらウインナーソーセージやチーズ、またポテトをキャベツかな?で包んだもの等と魚の料理もありました。以前のフィンランドに行った時にもおなじようなサーモンを基調としたポテトに包んであったものがあったが、似ているものである。デザートも平らげコンサート会場へ。
会場は宮殿なのでそのようにステージもあって、Orpheus楽団とかと言っていたとおもうが、数人編成のオーケストラでした。モーツァルトをメインにヨハンシュトラウス等の曲が演奏された。観客は世界中からきているらしく100人程のホールでしたが、国際色豊かに満員で聞き入りました。ところで最初に注意事項の説明があり、演奏中は写真撮影禁止ということでした。ところが最前列の人がビデオ撮りしていたり、他国の人も堂々と撮影しているので、ついつい私も演奏中じゃないからとちょっと羽目を外してカメラを構えていたら注意されてしまいました!まぁ仕方ないありませんが。今回はショパンを聴いたワルシャワの時のような休憩時間のシャンパンサービスはありませんでしたが、毎晩こうしたコンサートがウィーン市内各所で行われているということです。さすが音楽の都です。

翌朝はウィーンからフランクフルト経由で帰国の途につき、長い飛行時間を経て成田空港へと到着。お昼前ころ出発して午前9時ころに帰国という変な感じでしたが。帰りの空港の売店でもいろいろと買い物してきましたが、娘とあーでもないこーでもないと思案していたら足が棒のようになってしまいました。添乗員のYさんも私たち親子を気遣ってくれ、いろいろとお世話になりました。Yさん曰く世界中を回っていて絶対に行くべきところはアンコールワットだそうな。ありがとうございました。


2012年12月7日金曜日

ザッハーorデーメル・・トルテはどちら?音楽の街ウィーンでオーケストラコンサート・・6日目の午後

6日目は盛りだくさん。

昼食はシュテファン寺院をめざす。

シュテファン寺院は1365年に初めてオーストリア大公を名乗ったルドルフ4世がゴシック様式に改修した寺院。ウィーンのどこからも見えるというシンボル的な存在。地下のカタコンベにはハプスブルク家に代々の内蔵が安置されているといいます。中には入りませんでした。

建築・美術史はもう忘れてしまいましたが、12、3世紀のフランスを発祥とする建築様式といいますが、こうしたヨーロッパの代表的な都市の教会は、今回のケルン大聖堂や以前行ったポーランドクラクフの聖マリア教会もワルシャワの聖十字架教会もゴシック調の作りで、街のシンボルで天高くそびえ立っていました。しかも宗教的には全く理解が及びませんが、そこに死者の臓器を安置するということも共通しています。聖十字架教会にはショパンの心臓(二次大戦中に盗難にあったとされますが、今は戻されているといいます)このシュテファン寺院も、またお隣のシシィ達が挙式したアウグスティーナ教会には1654年から1878年までの一族の心臓54個も安置されているといいます。
時代はさかのぼってエジプトのピラミッドのミイラは死者の(その当時出来うる)防腐処理を行い(といっても強度の乾燥が重要か)、復活したときのために身体の保存をしたといいますが、技術的に臓器の保存は無理だったのであろうと思います。ではここの心臓の保存はどうやっているのでしょうか?アルコール固定が容易だったと思いますが、ちょっと調べたらこれは1780年頃に開発と言われます。ではロシアに眠っているとされるレーニンとかの時代になればホルマリン固定が可能であったと思いますが。現在ではホルマリンを代表とする固定法がありますが、(もうだいぶ前に病理検査学を学びましたが、今はほとんど忘れました。)それとこれら大聖堂・寺院・教会の区別もよくわかりませんが、こうしたことにも興味が尽きません。

さて肝心の昼食です。寺院のすぐ近くを通ったところ(なんとオーストリア大蔵省の近く。このあたりは現在も行政機構の中枢なんですね)のレストランにてウィンナー・シュニッツェル(洋風の仔牛のカツレツ)をメインにオーストリア白ワインも美味しくいただく。(写真下)



デザートはトルテ。娘は大喜び!しっかりとアプリコットジャムも入っていて生クリームと一緒にいただく。とにかく甘い。ウィナーはとにかく甘いものは徹底的に甘くして食べるらしい。
この王室御用達のトルテはザッハーとデーメルのご本家争いが有名だとか。この2軒のカフェのうち最初のザッハーが経営困難に陥ってデーメルに協力を求めて見返りにザッハートルテを作ることが認められたが、ザッハー側はデーメルに「オリジナル」の表示を禁止する裁判を起こしたが、1962年に両店とも販売可とされたという。
レストランを後にして自由に歩けるということで、早速娘と本家本元?のザッハーかデーメルのカフェを探した。運良く近くにあったのがデーメル。


早速入店してトルテをデーメルのトルテとコーヒーを注文。デーメルのは三角のチョコレートが飾られていて、ジャムは入らない。こちらはフランツヨーゼフ1世とシシィが通ったといい、紋章が王家を同じ双頭の鷲なのだそうだ。

店内はところ狭しとテーブルが並べられ、着席するまで少々待たされたが、オーダーは英語でなんとかクリア。ヨーロッパの旧いカフェの雰囲気を満喫できました。(さすがに店内の写真はやめときました)
本場のトルテをしっかりと食べて(といっても一つ€3.7だったので500円くらい?それにしてもコーヒーが€4.2なので600円近い?とにかくビールやワイン等のほうが€4くらいですので日本の逆の感覚でアルコールのほうが安い)、こちらはジャムは入っていないのであっさりとしていてチョコケーキが好きな人はこちらをおすすめ。チョコケーキ大好き人間の娘はコーヒーは飲まずにケーキ一本でたいそうお気に召した様子。

先ほどのレストランでのザッハー「派」トルテは日本人には甘すぎだと思いましたが、本家のザッハーまで行って食べ較べるほどお腹に余力がありませんでした。(ちなみにザッハーではGパンとかでは入店できないとか)

帰りにはやっぱり値がはっても木箱入のトルテをお土産に・・と購入。大きいサイズが日持ちが良いといいますが、サイズがいろいろとあり山盛りになっていました。











デーメルを出るとすぐ近くがホーフブルクの入口なので円形の公園のミヒャエル広場からシシィ・ミュージアムに入館。お隣にはスペイン乗馬学校、馬車も行き交っています。


その後は娘と自然史博物館を見学。
マリアテレジア広場を挟んで一方が美術史博物館があり、広場はクリスマスマーケットの準備まっ最中という感じ。マリアテレジア像は修復工事中でシートが被せられていましたが、私たちは自然史博物館のほうに入館しました。

日本の博物館は近代化が流行っていてディスプレーもネット環境を整えてITが盛りだくさんになってかえってうんざりしますが、ここはある意味昔の王族が収集してきた主に地質関係(鉱物や化石など)の陳列で(€10)でした。マリアテレジアの夫フランツ1世のコレクションといいますが、それにしてもティラノサウルス一匹の化石も個人コレクションですから・・・。
いくつもの部屋というか宮殿のセクションに分けられていて、そのコレクション数はもの凄い数です。美術史博物館にも行きたかったのですが、とても見る時間なんてありませんでした。でも日本とは違って閉館は午後6時半であることを後に知りましたが。

集合はお土産屋さんので日本語対応してくれるWALTZというお店で、いろいろと見て回ってきたことからモーツァルトやシシィに由来するようなものとか購入。もう、かなり重量オーバーになりそうなのでヒヤヒヤものでしたが、なんとか最悪の場合は服を捨てていくという手段をとるつもり(前回のポーランド、フィンランドの時は結構捨ててきた)で、娘と買い物に頭を悩ませて時間いっぱい店内をあちこちと回りました。


さて、夜は音楽の都ウィーンでの宮殿でのディナー&オーケストラコンサートです。











2012年12月6日木曜日

ウィーン市内を満喫!シェーンブルン宮殿・・ホーフブルク、シシィミュージアム・・

旅行6日目、いよいよメイン企画のウィーン巡り。
最初はシェーンブルン宮殿。

ハプスブルク家の帝都。13世紀からつい先世紀まで世界に日の沈まない帝国を築き上げた王家といわれる。ルドルフ1世が1273年に神聖ローマ帝国皇帝に選出され領土を拡大。
14世紀以降東方から勃興したオスマントルコ軍に進軍されるもこれを打ち破り(トルコ行進曲がこのことから作られたのは後に知りました)


18世紀にはマリアテレジアが女帝として君臨し、その絶頂期を迎えた。が、ナポレオンの台頭によりオーストリアは敗北し、ナポレオンのシェーンブルン宮殿への入城を許すことになった。ナポレオンが1813年に敗れたあとの欧州再編を決めたのがウィーン会議。

19世紀には城壁が壊され、リングが築かれ街の整備が進み現在の原型になったが、20世紀に入り一次大戦での敗北を受け640年に及ぶ栄華を誇ったハプスブルク家は歴史から姿を消した。
ヒトラーに併合されて2次大戦を経て永世中立国として再出発を果たしている。と世界史のおさらいをざっとしてみたが、百聞は一見。実際に見るとその繁栄と栄華というのか文化芸術もすごいものである。


 宮殿内はやはり撮影禁止なので私はカメラを持つ手がウズウズしてしまっていたが、外構は構わないので撮影。天候が小雨交じりなのでちょっと残念。
広い広い宮殿の入口を入ると(入るまでも長い道のり)さすが、「フランスのベルサイユ宮殿に匹敵する宮殿を」と創られた建造物。といってもフランスには行ったことはありませんが・・・。


実に1500人以上の家臣と1441室もあるという宮殿(現在は賃貸している部屋もあるとか)。公開しているのは40室だといいますが、フランツ・ヨーゼフの執務室、寝室やシシィの愛称で呼ばれた皇妃エリザベートにまつわる部屋、膨大な数の銀食器、など色々と見ることができた。


ここがハプスブルク家が一夏を過ごした夏の離宮だというのだから驚きです。



 
 
その後ホーフブルク(王宮)の外観を見学。これがまた広くてどこにいるのかわからなくなってしまいました。新王宮の前には巨大な二体の馬にまたがる兵士の銅像が向かい合っているのが印象的でしたが、一つはオイゲン公像でもう一つはカール大公像といいます。オイゲン公はオスマントルコを撃退したフランス出身の英雄。カール大公は1809年アシュペルンの戦いにおける像と言われます。(これはまた調べてみよう・・)




シシィミュージアムにも入ってみました。ここはホーフブルクの一角の旧王宮の中にあり、別料金で見学できました。
彼女のコレクションの絢爛豪華な宝石や金や銀などの食器、そして62歳にしてスイスへの訪問中に刺殺され命を閉じた数奇な一生の展示、また4人の子供を産んでも身長173センチ、体重48キロ50センチのウェストをキープしていたという(過度のダイエット等によるという)今でも凄いことですが、その方が身を包んでいたというドレス等の衣装(ドレスのことなどよくわからないのですがウェストが「か細い」!)や、レマン湖で刺された時の短剣のようなヤスリと応急手当(常時持っていた痩身のため?という)様々な薬、注射器なども当時のまま展示されていました。

エリザベートは息子に先立たれ(令嬢との心中だそうですが)、これが原因なのかその後は公式でもそうでなくても喪服に身をつつんで放浪したといいます。当時の政策での政略結婚のためドイツ・バイエルンから15歳の時に姉の見合いの席で妹の方のエリザベートが見初められてしまい結婚したフランツ・ヨーゼフ1世との溝も深まる中だったといわれます。

街のいたるところやパンフレット、お土産にもエリザベート(ウィナーはシシィと呼ぶそうです)の肖像画が貼られているのですが、写真でも本当に「絶世の美女」と言われるのもうなづけました。が、15歳からの人生は人間らしい生活からは遠ざかってしまい、一人の人間としての幸福感は乏しかったのではないかと想像できてしまったのでした。



2012年12月5日水曜日

いよいよオーストリアへ ザルツブルク~ハルシュッタット~ウィーンへ

5日め、またまたバスにてミュンヘンから国境越してオーストリアへと入ります。約3時間145キロの道のりを走りました。途中より白い雪を頂上にいただく山々が見えるようになり、ドイツ・オーストリア国境は入管とかはなくてフリーに行き交うことができます。

途中の民家にはさすがにソーラー発電用のパネルを載せた家も多く、自然エネルギーによるエネルギー自給率を上げているお国柄が伺えました。また、あまり送電線の鉄塔というのも少なく、あってもみんな形がバラバラなのも地産地消の現れでしょうか。

さて、オーストリア最初の訪問地はモーツァルトの生地のザルツブルクです。ザルツ=塩、ブルク=城という名前のとおりここには岩塩が産出されて繁栄を築き上げてきたといいます。人口14万8000人余りで、多くの観光客と音楽の都らしい美しい世界遺産のザルツブルク市街歴史地区を見ました。サウンドオブミュージックの舞台にもなったミラベル庭園では現地ガイドの方の話に聞き入りました。
ミラベル庭園からザルツァッハ川を渡り(ここの橋には世界中のここを訪れたカップルが記念にフェンスに鍵をかけるといい、まさに「鍵だらけの」フェンスに)旧市街地に入り、ホーエンザルツブルク城のふもとの旧市街地を見物。お土産のゲットに忙しい方々もいらしたが、こちらはとにかく見られるものを見ようということで、片っ端から街中を歩いていましたが、そのうちお土産屋さんに目が。娘はお土産にとこの時期にドイツやオーストリアで作られるケーキ(保存が効くといいますが、これが重い!1キロはあるでしょうか)を5,6個も買っていました。私はオーストリアらしい国旗の入ったキャップ(モーツァルトの生家でも買って=キャップコレクタ?)を購入(結構安い)し、その他諸々のものを家族へと購入。
モーツァルトが好んで食べたというモーツァルトクーゲル(トリュフの形をしたチョコ)いろいろな店が売っているということですが、本家本元の店(チョコの包装紙が青)には人だかりなので諦めて、赤いのを市場で求めましたが、やはり本物?が欲しくてこの後同じツアー客から譲ってもらったのでした。それで、少ない時間を費やしたのはやっぱりモーツァルトの生家の見学です。たしか10ユーロとちょっと高かったのですが、娘は自分でチケット買うというので任せてみました。だいたい英語が通じました。こちらの住居はアパートの一軒が5,6階あって、これの数階分に暮らしていたので日本とは比較になりませんが、室内には彼が愛用したピアノ、ヴァイオリン等の楽器や机や、戸棚などの家具類、そして彼の直筆の(初めて作曲したとか書いてあった)楽譜や食器などが陳列されていました。

その後、昼食を旧市内でとり(このお店が日本名「NAGANO」。でも経営者は韓国or中国人だそうです)、中華料理でしたが、店内ではオーストリア人でしょうか、箸使いがぎこちない様子でしたが、人気もあるようです。






昼食後バスを東に走らせて、ザルツブルクの塩を産出してきたハルシュタット湖に到着しました。
ハルシュタットはケルト文明の地として発達してきた歴史をもち、ドナウ川、ライン川の流域に広がった初期鉄器文明にあたる第一次ケルト文明はハルシュタット文明と呼ばれています。97年世界遺産に登録され、湖面に映る街並みと山々の美しさで有名。この地方名「ザルツカンマーグート」の真珠とも言われているそうです。
湖を大型の遊覧船で一周するのですが、すでに夕方にさしかかり日が山に隠れる(といっても上高地などと同じだと思われますが、カール地形の谷底にある湖ですので日陰になって寒くて娘も鼻を真っ赤にしてたり)最初は霧が巻いていて幻想的で、これが晴れ上がって湖面に町や山が映る姿は圧巻でした。
町に戻って散策しましたが、すでに冬期間の休業に入っているので、開いているお土産屋さんも少なかったのですが、岩塩を売るお店では私たちが日本の塩の道の最終地点の地から来たことを伝えると、なんとなく分かってくれたような?感じ。食用の岩塩や入浴用の岩塩などを購入してみました。

ハルシュタット塩坑は世界一古くしかも現在も操業しているというからで驚きであるが、すでに冬期のため入坑時間も過ぎているので入らず。




ここから290キロ離れたウィーンへのバスの旅。

ウィーンではホテルは二手に分かれて宿泊となるので、バスが2箇所にとまりそれぞれ下車することになりました。
私たちはリング沿いでウィーン大学のすぐ近くのホテルドゥフランスに泊まることにしました。事前にネットで調べておいたのですが、ヨーロッパの伝統ホテルは初めてですが、1872年創業でブルックナーがいくつもの名曲を生み出したホテルだそうです。それまで、シャワーのお湯が出ないことやTVが映らないなどのよくあるアクシデントがありましたが、ウィーンでは自由時間があるのでしっかりと歩いて見たいので市内中心部に泊まって安心なホテルにしたかったのです。他の一行はシェーンブルン宮殿のある方面で少し市街地から離れたところだったそうですが、そこから見える宮殿はどうだったのでしょうか。




2012年12月4日火曜日

4日目は世界遺産ヴィース教会からノイシュバンシュタイン城へ

4日め、ローテンブルクのホテルでの朝食を摂るが、日本人客でごった返しているという状況。他のツアー客もここを使っているらしい。しかし朝食は量が少ない感じでソーセージ等は一人で何本も取った人がいて私はありつけず・・・・・。こういうところでの日本人はえげつない・・。朝食の喧騒をくぐり抜けてバスで出発。この日はロマンチック街道を南下してなんと250キロ、世界遺産のヴィース巡礼教会へと向かった。5時間のバスの行程で疲労気味。

この教会はロココ様式のヨーロッパ一美しいとされる教会で、草原の真っ只中に建っていました。世界遺産というのでさぞかし大きいいかと思いきや、国内に見る教会よりちょっと大きい程度でした。が、ここには1738年、近郊の修道院で放置されていた「鞭打たれる姿のキリスト像」が涙を流したという奇跡が起きてここに安置されたといいます。入口でろうそくを頂きました。
娘はここではドイツの国内旅行者となにやら英会話していましたが、親切にゆっくりと話してくれ、ちょっとは積極的に英会話しようとする姿がみえました。がしかし、それにしてもドイツの田舎で、大きな鶏がいてそちらのほうが娘は気になっていて写真撮影してたような・・。

その後、ホーエンシュバンガウへ(25キロ)ここはかの有名な白鳥のような城ノイシュバンシュタイン城の麓です。ここでまずは遅い昼食をとり、城へのバスを待ちます。その前に日本人が経営者といお土産店で帰りに買って帰る品々を物色しました。

ホーエンシュバンガウ城はノイシュバンシュタイン城を建てたルードヴィッヒⅡ世の父親マクシミリアン2世が12正規に築かれた城を1832年から36年にネオゴシック様式で再建した城で、食事をしたレストランからよく見えました。
ノイシュバンシュタイン城は数奇な死を遂げたルードヴィッヒ2世(1845年~86年)が17年と巨額を投じて白亜の美しい城。東京ディズニーランドのシンデレラ城が参考にしたとも言われていますが、中世風ではあるのですが、作られたのは19世紀。

世界遺産ですので世界中からの観光客で賑わい、チケットを手にして入城できるまでには、デジタル掲示板に50人ほどづつ分けて入るというグループ分けがなされます。

教会もそうですが場内は撮影禁止なので、荘厳な室内を撮ってくることはできませんでした。
が、城からの景色は撮影OK。生涯妃を娶らず孤独で、狂気?でシュタインベルク湖での謎の死など、それまで興味をもたなかった神聖ローマ帝国とこれにまつわるハプスブルク家の栄華と没落についてももっと知って見たいと思いました。
写真は城がもっとも美しく見えるという滝の近くの橋から撮影。観光客でごった返していましたが、記念撮影も。ここからの城はホントに絵になります。

約1時間半の見学で城を出て歩いて麓のお土産屋まできて、先ほど物色しておいたお土産をゲットしてバスに乗る頃には夕方になり、西に輝きだした月と白亜の城がこれまた美しく映えていました。(写真はさすがに失敗!)
ここから約120キロを今晩のホテルのあるあのオリンピックをやったミュンヘンまで。

3日目は古城と学都のハイデルベルクからローテンブルクへ

11月23日、フランクフルトのホテルを早朝にバスで出発。約95キロを走ってハイデルベルクに到着。人口は15万人弱、ライン川の支流ネッカー川のほとりに位置するドイツ最古のハイデルベルク大学を擁し、しないにバスで入ると多くの学生と思しき若者がたくさん往来していた。
18世紀からゲーテやショパンといった詩人、芸術家が訪れ作品を生み出した。

なんといってもここは古城ハイデルベルク城が堂々として町を見下ろしている。急傾斜をバスで登ったところから徒歩で入場。城は13世紀頃からプファルツ伯の居城として拡張され、ゴシック、ルネッサンス、バロックなど様々な様式が5世紀の年月の間に建造された。しかし、30年戦争やプファルツ継承戦争や火事で破壊され、廃墟のような状況も見られる。
ワインの大樽のそばには道化師ペオルケの像があり、ガイドからその由来を聞く。

ハイデルベルク城から見下ろすカールテオドール橋がとても印象的。1788年に選帝候カール・テオドールによって建設された重厚感のある200メートルほどの橋で別名アルテブリッケ(古い橋)と呼ばれる。石像と洪水の時の水位を示すメジャー、そして橋の登りてには牢獄だったといわれる古い建造物があった。城から対岸にある哲学者の道を確認できたが、ここはゲーテが散歩したと言われる場所。物思いにふけることができたらしいが?当時はどんなだったのでしょう?

さて、ここに来る道中バスの車窓からなんだか煙(水蒸気?)の立ち上がる、独特な格好の建物が見えました。後でガイドさんに聞くと原発だそうです。海からは遠いのでライン川などの大きな川の水を使っているようです。が、こんなに一般の住民の生活圏の近くにあるとは!

ドイツが日本の福島原発の惨状を受けてすぐに脱原発に転じることがなされたのはこうした住民の生活圏のすぐ近くに原発を作ってしまったからではないかとこの時確信してしまいました。

日本は人里離れた場所にひっそりと隠れるように建設し、そこからロスがあっても送電線を首都圏へとのばしてきました。反対運動を起こしづらいところに目をつけて電力メーカは作ってきました。日本とドイツの違いが垣間見れた瞬間でした。

この話はこのくらいにしておいて、ハイデルベルクを後にして今度は古城街道を東進して、この日の宿泊地のロテンブルクへと175キロ。途中のレストランで昼食を摂って到着したのは夕方でした。ローテンブルクは正式にはRothenburg ob der Tauber(タウバー川の上にあるローテンブルク)といわれ、国内にいくつかローテンブルクがあるといいます。町の起源は9世紀で最初の城壁は12世紀にできあがったとされます。自由都市として栄えたのは17世紀の30年戦争頃までで
、中世の姿を完璧に残した小都市(人口11000人)。
ホテルのあるシュランネン広場に入るとそこは中世。城壁に登るとここを復元した時に寄付を募った折に日本人企業家も協力して名前が刻まれていました。
夕食までの間、町の中をショッピングして歩きました。中世の街並みの店、ウインドウからみてもとても美しい風景で写真愛好家としてはたまりませんでした。娘はこれからクリスマスマーケットの準備が始まる前で賑やかな飾り付けや、有名なお菓子(英語でsnow ball)にありつけてご満悦。(実は私も旨くてはまった)
宿泊は中世の城を改装したシュランネンという広場の真ん前のホテルでした。ホテルの前評判は狭いとかあまりよくないとか酷評されていましたが、私たちの部屋はトリプルを2人で使えたのでとても心地よく過ごせました。
夕食をレストランで摂ってから閉店してもライトアップされたショーウインドウを見てホテルまでの帰路はいろいろと美しく楽しいディスプレイに巡りあえ道草もとても満足しました。(寒かったけど)
夜9時前にはマルクト広場に面した市庁舎、市議宴会館に老若男女が集まり人だかりになっています。ひとつは市庁舎の仕掛け時計マイスタートルンクの人形に注目していました。
夜20、21、22時の正時には仕掛け時計が動き出します。ティリー将軍とヌッシュ市長が現れます。1631年30年戦争の時にローテンブルクを占領した皇帝軍のティリー将軍が市参事会員たちの首をはねることになったけれど、将軍はすすめられたワインをジョッキで一気飲みするものがあればそれをやめるといい、市長がこれを一気に飲み干して事なきを得たという伝説らしいのですが、それが仕掛け時計で演じられているといいます。私達も見てみたけれど、話の筋書きを知っていればよくわかるのだろうが、この時はあまり理解しておらず、????という感じ。
ここに私たちは見ていましたが、近くの飲み屋で飲んでいた中世のコスチュームを着た男性が市議宴会館前で何やら語りを初めました。ドイツ語なのでよくわからないのですが、ローテンブルクの名物おじさんらしく市の観光案内に掲載されていました。ところどころ笑いも入れて、あやしい大道芸人ですが、近くのレストランで飲んでいたのをみてしまったものですから変な感じ。

下の写真はきれいなウインドウのディスプレー(飽きません)。もう一つ下は仕掛け時計。将軍と市長が出てくるところ。