最初はシェーンブルン宮殿。
14世紀以降東方から勃興したオスマントルコ軍に進軍されるもこれを打ち破り(トルコ行進曲がこのことから作られたのは後に知りました)
18世紀にはマリアテレジアが女帝として君臨し、その絶頂期を迎えた。が、ナポレオンの台頭によりオーストリアは敗北し、ナポレオンのシェーンブルン宮殿への入城を許すことになった。ナポレオンが1813年に敗れたあとの欧州再編を決めたのがウィーン会議。
19世紀には城壁が壊され、リングが築かれ街の整備が進み現在の原型になったが、20世紀に入り一次大戦での敗北を受け640年に及ぶ栄華を誇ったハプスブルク家は歴史から姿を消した。
宮殿内はやはり撮影禁止なので私はカメラを持つ手がウズウズしてしまっていたが、外構は構わないので撮影。天候が小雨交じりなのでちょっと残念。
広い広い宮殿の入口を入ると(入るまでも長い道のり)さすが、「フランスのベルサイユ宮殿に匹敵する宮殿を」と創られた建造物。といってもフランスには行ったことはありませんが・・・。
実に1500人以上の家臣と1441室もあるという宮殿(現在は賃貸している部屋もあるとか)。公開しているのは40室だといいますが、フランツ・ヨーゼフの執務室、寝室やシシィの愛称で呼ばれた皇妃エリザベートにまつわる部屋、膨大な数の銀食器、など色々と見ることができた。
ここがハプスブルク家が一夏を過ごした夏の離宮だというのだから驚きです。
その後ホーフブルク(王宮)の外観を見学。これがまた広くてどこにいるのかわからなくなってしまいました。新王宮の前には巨大な二体の馬にまたがる兵士の銅像が向かい合っているのが印象的でしたが、一つはオイゲン公像でもう一つはカール大公像といいます。オイゲン公はオスマントルコを撃退したフランス出身の英雄。カール大公は1809年アシュペルンの戦いにおける像と言われます。(これはまた調べてみよう・・)
エリザベートは息子に先立たれ(令嬢との心中だそうですが)、これが原因なのかその後は公式でもそうでなくても喪服に身をつつんで放浪したといいます。当時の政策での政略結婚のためドイツ・バイエルンから15歳の時に姉の見合いの席で妹の方のエリザベートが見初められてしまい結婚したフランツ・ヨーゼフ1世との溝も深まる中だったといわれます。
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