2012年12月6日木曜日

ウィーン市内を満喫!シェーンブルン宮殿・・ホーフブルク、シシィミュージアム・・

旅行6日目、いよいよメイン企画のウィーン巡り。
最初はシェーンブルン宮殿。

ハプスブルク家の帝都。13世紀からつい先世紀まで世界に日の沈まない帝国を築き上げた王家といわれる。ルドルフ1世が1273年に神聖ローマ帝国皇帝に選出され領土を拡大。
14世紀以降東方から勃興したオスマントルコ軍に進軍されるもこれを打ち破り(トルコ行進曲がこのことから作られたのは後に知りました)


18世紀にはマリアテレジアが女帝として君臨し、その絶頂期を迎えた。が、ナポレオンの台頭によりオーストリアは敗北し、ナポレオンのシェーンブルン宮殿への入城を許すことになった。ナポレオンが1813年に敗れたあとの欧州再編を決めたのがウィーン会議。

19世紀には城壁が壊され、リングが築かれ街の整備が進み現在の原型になったが、20世紀に入り一次大戦での敗北を受け640年に及ぶ栄華を誇ったハプスブルク家は歴史から姿を消した。
ヒトラーに併合されて2次大戦を経て永世中立国として再出発を果たしている。と世界史のおさらいをざっとしてみたが、百聞は一見。実際に見るとその繁栄と栄華というのか文化芸術もすごいものである。


 宮殿内はやはり撮影禁止なので私はカメラを持つ手がウズウズしてしまっていたが、外構は構わないので撮影。天候が小雨交じりなのでちょっと残念。
広い広い宮殿の入口を入ると(入るまでも長い道のり)さすが、「フランスのベルサイユ宮殿に匹敵する宮殿を」と創られた建造物。といってもフランスには行ったことはありませんが・・・。


実に1500人以上の家臣と1441室もあるという宮殿(現在は賃貸している部屋もあるとか)。公開しているのは40室だといいますが、フランツ・ヨーゼフの執務室、寝室やシシィの愛称で呼ばれた皇妃エリザベートにまつわる部屋、膨大な数の銀食器、など色々と見ることができた。


ここがハプスブルク家が一夏を過ごした夏の離宮だというのだから驚きです。



 
 
その後ホーフブルク(王宮)の外観を見学。これがまた広くてどこにいるのかわからなくなってしまいました。新王宮の前には巨大な二体の馬にまたがる兵士の銅像が向かい合っているのが印象的でしたが、一つはオイゲン公像でもう一つはカール大公像といいます。オイゲン公はオスマントルコを撃退したフランス出身の英雄。カール大公は1809年アシュペルンの戦いにおける像と言われます。(これはまた調べてみよう・・)




シシィミュージアムにも入ってみました。ここはホーフブルクの一角の旧王宮の中にあり、別料金で見学できました。
彼女のコレクションの絢爛豪華な宝石や金や銀などの食器、そして62歳にしてスイスへの訪問中に刺殺され命を閉じた数奇な一生の展示、また4人の子供を産んでも身長173センチ、体重48キロ50センチのウェストをキープしていたという(過度のダイエット等によるという)今でも凄いことですが、その方が身を包んでいたというドレス等の衣装(ドレスのことなどよくわからないのですがウェストが「か細い」!)や、レマン湖で刺された時の短剣のようなヤスリと応急手当(常時持っていた痩身のため?という)様々な薬、注射器なども当時のまま展示されていました。

エリザベートは息子に先立たれ(令嬢との心中だそうですが)、これが原因なのかその後は公式でもそうでなくても喪服に身をつつんで放浪したといいます。当時の政策での政略結婚のためドイツ・バイエルンから15歳の時に姉の見合いの席で妹の方のエリザベートが見初められてしまい結婚したフランツ・ヨーゼフ1世との溝も深まる中だったといわれます。

街のいたるところやパンフレット、お土産にもエリザベート(ウィナーはシシィと呼ぶそうです)の肖像画が貼られているのですが、写真でも本当に「絶世の美女」と言われるのもうなづけました。が、15歳からの人生は人間らしい生活からは遠ざかってしまい、一人の人間としての幸福感は乏しかったのではないかと想像できてしまったのでした。



2012年12月5日水曜日

いよいよオーストリアへ ザルツブルク~ハルシュッタット~ウィーンへ

5日め、またまたバスにてミュンヘンから国境越してオーストリアへと入ります。約3時間145キロの道のりを走りました。途中より白い雪を頂上にいただく山々が見えるようになり、ドイツ・オーストリア国境は入管とかはなくてフリーに行き交うことができます。

途中の民家にはさすがにソーラー発電用のパネルを載せた家も多く、自然エネルギーによるエネルギー自給率を上げているお国柄が伺えました。また、あまり送電線の鉄塔というのも少なく、あってもみんな形がバラバラなのも地産地消の現れでしょうか。

さて、オーストリア最初の訪問地はモーツァルトの生地のザルツブルクです。ザルツ=塩、ブルク=城という名前のとおりここには岩塩が産出されて繁栄を築き上げてきたといいます。人口14万8000人余りで、多くの観光客と音楽の都らしい美しい世界遺産のザルツブルク市街歴史地区を見ました。サウンドオブミュージックの舞台にもなったミラベル庭園では現地ガイドの方の話に聞き入りました。
ミラベル庭園からザルツァッハ川を渡り(ここの橋には世界中のここを訪れたカップルが記念にフェンスに鍵をかけるといい、まさに「鍵だらけの」フェンスに)旧市街地に入り、ホーエンザルツブルク城のふもとの旧市街地を見物。お土産のゲットに忙しい方々もいらしたが、こちらはとにかく見られるものを見ようということで、片っ端から街中を歩いていましたが、そのうちお土産屋さんに目が。娘はお土産にとこの時期にドイツやオーストリアで作られるケーキ(保存が効くといいますが、これが重い!1キロはあるでしょうか)を5,6個も買っていました。私はオーストリアらしい国旗の入ったキャップ(モーツァルトの生家でも買って=キャップコレクタ?)を購入(結構安い)し、その他諸々のものを家族へと購入。
モーツァルトが好んで食べたというモーツァルトクーゲル(トリュフの形をしたチョコ)いろいろな店が売っているということですが、本家本元の店(チョコの包装紙が青)には人だかりなので諦めて、赤いのを市場で求めましたが、やはり本物?が欲しくてこの後同じツアー客から譲ってもらったのでした。それで、少ない時間を費やしたのはやっぱりモーツァルトの生家の見学です。たしか10ユーロとちょっと高かったのですが、娘は自分でチケット買うというので任せてみました。だいたい英語が通じました。こちらの住居はアパートの一軒が5,6階あって、これの数階分に暮らしていたので日本とは比較になりませんが、室内には彼が愛用したピアノ、ヴァイオリン等の楽器や机や、戸棚などの家具類、そして彼の直筆の(初めて作曲したとか書いてあった)楽譜や食器などが陳列されていました。

その後、昼食を旧市内でとり(このお店が日本名「NAGANO」。でも経営者は韓国or中国人だそうです)、中華料理でしたが、店内ではオーストリア人でしょうか、箸使いがぎこちない様子でしたが、人気もあるようです。






昼食後バスを東に走らせて、ザルツブルクの塩を産出してきたハルシュタット湖に到着しました。
ハルシュタットはケルト文明の地として発達してきた歴史をもち、ドナウ川、ライン川の流域に広がった初期鉄器文明にあたる第一次ケルト文明はハルシュタット文明と呼ばれています。97年世界遺産に登録され、湖面に映る街並みと山々の美しさで有名。この地方名「ザルツカンマーグート」の真珠とも言われているそうです。
湖を大型の遊覧船で一周するのですが、すでに夕方にさしかかり日が山に隠れる(といっても上高地などと同じだと思われますが、カール地形の谷底にある湖ですので日陰になって寒くて娘も鼻を真っ赤にしてたり)最初は霧が巻いていて幻想的で、これが晴れ上がって湖面に町や山が映る姿は圧巻でした。
町に戻って散策しましたが、すでに冬期間の休業に入っているので、開いているお土産屋さんも少なかったのですが、岩塩を売るお店では私たちが日本の塩の道の最終地点の地から来たことを伝えると、なんとなく分かってくれたような?感じ。食用の岩塩や入浴用の岩塩などを購入してみました。

ハルシュタット塩坑は世界一古くしかも現在も操業しているというからで驚きであるが、すでに冬期のため入坑時間も過ぎているので入らず。




ここから290キロ離れたウィーンへのバスの旅。

ウィーンではホテルは二手に分かれて宿泊となるので、バスが2箇所にとまりそれぞれ下車することになりました。
私たちはリング沿いでウィーン大学のすぐ近くのホテルドゥフランスに泊まることにしました。事前にネットで調べておいたのですが、ヨーロッパの伝統ホテルは初めてですが、1872年創業でブルックナーがいくつもの名曲を生み出したホテルだそうです。それまで、シャワーのお湯が出ないことやTVが映らないなどのよくあるアクシデントがありましたが、ウィーンでは自由時間があるのでしっかりと歩いて見たいので市内中心部に泊まって安心なホテルにしたかったのです。他の一行はシェーンブルン宮殿のある方面で少し市街地から離れたところだったそうですが、そこから見える宮殿はどうだったのでしょうか。




2012年12月4日火曜日

4日目は世界遺産ヴィース教会からノイシュバンシュタイン城へ

4日め、ローテンブルクのホテルでの朝食を摂るが、日本人客でごった返しているという状況。他のツアー客もここを使っているらしい。しかし朝食は量が少ない感じでソーセージ等は一人で何本も取った人がいて私はありつけず・・・・・。こういうところでの日本人はえげつない・・。朝食の喧騒をくぐり抜けてバスで出発。この日はロマンチック街道を南下してなんと250キロ、世界遺産のヴィース巡礼教会へと向かった。5時間のバスの行程で疲労気味。

この教会はロココ様式のヨーロッパ一美しいとされる教会で、草原の真っ只中に建っていました。世界遺産というのでさぞかし大きいいかと思いきや、国内に見る教会よりちょっと大きい程度でした。が、ここには1738年、近郊の修道院で放置されていた「鞭打たれる姿のキリスト像」が涙を流したという奇跡が起きてここに安置されたといいます。入口でろうそくを頂きました。
娘はここではドイツの国内旅行者となにやら英会話していましたが、親切にゆっくりと話してくれ、ちょっとは積極的に英会話しようとする姿がみえました。がしかし、それにしてもドイツの田舎で、大きな鶏がいてそちらのほうが娘は気になっていて写真撮影してたような・・。

その後、ホーエンシュバンガウへ(25キロ)ここはかの有名な白鳥のような城ノイシュバンシュタイン城の麓です。ここでまずは遅い昼食をとり、城へのバスを待ちます。その前に日本人が経営者といお土産店で帰りに買って帰る品々を物色しました。

ホーエンシュバンガウ城はノイシュバンシュタイン城を建てたルードヴィッヒⅡ世の父親マクシミリアン2世が12正規に築かれた城を1832年から36年にネオゴシック様式で再建した城で、食事をしたレストランからよく見えました。
ノイシュバンシュタイン城は数奇な死を遂げたルードヴィッヒ2世(1845年~86年)が17年と巨額を投じて白亜の美しい城。東京ディズニーランドのシンデレラ城が参考にしたとも言われていますが、中世風ではあるのですが、作られたのは19世紀。

世界遺産ですので世界中からの観光客で賑わい、チケットを手にして入城できるまでには、デジタル掲示板に50人ほどづつ分けて入るというグループ分けがなされます。

教会もそうですが場内は撮影禁止なので、荘厳な室内を撮ってくることはできませんでした。
が、城からの景色は撮影OK。生涯妃を娶らず孤独で、狂気?でシュタインベルク湖での謎の死など、それまで興味をもたなかった神聖ローマ帝国とこれにまつわるハプスブルク家の栄華と没落についてももっと知って見たいと思いました。
写真は城がもっとも美しく見えるという滝の近くの橋から撮影。観光客でごった返していましたが、記念撮影も。ここからの城はホントに絵になります。

約1時間半の見学で城を出て歩いて麓のお土産屋まできて、先ほど物色しておいたお土産をゲットしてバスに乗る頃には夕方になり、西に輝きだした月と白亜の城がこれまた美しく映えていました。(写真はさすがに失敗!)
ここから約120キロを今晩のホテルのあるあのオリンピックをやったミュンヘンまで。

3日目は古城と学都のハイデルベルクからローテンブルクへ

11月23日、フランクフルトのホテルを早朝にバスで出発。約95キロを走ってハイデルベルクに到着。人口は15万人弱、ライン川の支流ネッカー川のほとりに位置するドイツ最古のハイデルベルク大学を擁し、しないにバスで入ると多くの学生と思しき若者がたくさん往来していた。
18世紀からゲーテやショパンといった詩人、芸術家が訪れ作品を生み出した。

なんといってもここは古城ハイデルベルク城が堂々として町を見下ろしている。急傾斜をバスで登ったところから徒歩で入場。城は13世紀頃からプファルツ伯の居城として拡張され、ゴシック、ルネッサンス、バロックなど様々な様式が5世紀の年月の間に建造された。しかし、30年戦争やプファルツ継承戦争や火事で破壊され、廃墟のような状況も見られる。
ワインの大樽のそばには道化師ペオルケの像があり、ガイドからその由来を聞く。

ハイデルベルク城から見下ろすカールテオドール橋がとても印象的。1788年に選帝候カール・テオドールによって建設された重厚感のある200メートルほどの橋で別名アルテブリッケ(古い橋)と呼ばれる。石像と洪水の時の水位を示すメジャー、そして橋の登りてには牢獄だったといわれる古い建造物があった。城から対岸にある哲学者の道を確認できたが、ここはゲーテが散歩したと言われる場所。物思いにふけることができたらしいが?当時はどんなだったのでしょう?

さて、ここに来る道中バスの車窓からなんだか煙(水蒸気?)の立ち上がる、独特な格好の建物が見えました。後でガイドさんに聞くと原発だそうです。海からは遠いのでライン川などの大きな川の水を使っているようです。が、こんなに一般の住民の生活圏の近くにあるとは!

ドイツが日本の福島原発の惨状を受けてすぐに脱原発に転じることがなされたのはこうした住民の生活圏のすぐ近くに原発を作ってしまったからではないかとこの時確信してしまいました。

日本は人里離れた場所にひっそりと隠れるように建設し、そこからロスがあっても送電線を首都圏へとのばしてきました。反対運動を起こしづらいところに目をつけて電力メーカは作ってきました。日本とドイツの違いが垣間見れた瞬間でした。

この話はこのくらいにしておいて、ハイデルベルクを後にして今度は古城街道を東進して、この日の宿泊地のロテンブルクへと175キロ。途中のレストランで昼食を摂って到着したのは夕方でした。ローテンブルクは正式にはRothenburg ob der Tauber(タウバー川の上にあるローテンブルク)といわれ、国内にいくつかローテンブルクがあるといいます。町の起源は9世紀で最初の城壁は12世紀にできあがったとされます。自由都市として栄えたのは17世紀の30年戦争頃までで
、中世の姿を完璧に残した小都市(人口11000人)。
ホテルのあるシュランネン広場に入るとそこは中世。城壁に登るとここを復元した時に寄付を募った折に日本人企業家も協力して名前が刻まれていました。
夕食までの間、町の中をショッピングして歩きました。中世の街並みの店、ウインドウからみてもとても美しい風景で写真愛好家としてはたまりませんでした。娘はこれからクリスマスマーケットの準備が始まる前で賑やかな飾り付けや、有名なお菓子(英語でsnow ball)にありつけてご満悦。(実は私も旨くてはまった)
宿泊は中世の城を改装したシュランネンという広場の真ん前のホテルでした。ホテルの前評判は狭いとかあまりよくないとか酷評されていましたが、私たちの部屋はトリプルを2人で使えたのでとても心地よく過ごせました。
夕食をレストランで摂ってから閉店してもライトアップされたショーウインドウを見てホテルまでの帰路はいろいろと美しく楽しいディスプレイに巡りあえ道草もとても満足しました。(寒かったけど)
夜9時前にはマルクト広場に面した市庁舎、市議宴会館に老若男女が集まり人だかりになっています。ひとつは市庁舎の仕掛け時計マイスタートルンクの人形に注目していました。
夜20、21、22時の正時には仕掛け時計が動き出します。ティリー将軍とヌッシュ市長が現れます。1631年30年戦争の時にローテンブルクを占領した皇帝軍のティリー将軍が市参事会員たちの首をはねることになったけれど、将軍はすすめられたワインをジョッキで一気飲みするものがあればそれをやめるといい、市長がこれを一気に飲み干して事なきを得たという伝説らしいのですが、それが仕掛け時計で演じられているといいます。私達も見てみたけれど、話の筋書きを知っていればよくわかるのだろうが、この時はあまり理解しておらず、????という感じ。
ここに私たちは見ていましたが、近くの飲み屋で飲んでいた中世のコスチュームを着た男性が市議宴会館前で何やら語りを初めました。ドイツ語なのでよくわからないのですが、ローテンブルクの名物おじさんらしく市の観光案内に掲載されていました。ところどころ笑いも入れて、あやしい大道芸人ですが、近くのレストランで飲んでいたのをみてしまったものですから変な感じ。

下の写真はきれいなウインドウのディスプレー(飽きません)。もう一つ下は仕掛け時計。将軍と市長が出てくるところ。

2012年12月2日日曜日

ドイツ リューデスハイム~ケルン大聖堂 ライン川下りの旅

リューデスハイム つぐみ横丁
フランクフルト国際空港の入管では入国の目的が聞かれましたが、「観光です」と娘はなんと答えていたのか心配でしたが、滞おりなく通過。旅行会社のチャーターしたバスでホテルまで送っていただきましたが、時差ボケと空がぼんやりしていて余計にボケボケに。

フランクフルトではニ泊しました。ライン河の支流であるマイン川が流れる都市で、ドイツの商業、金融の中心地と言われています。人口約68万人といいますが、到着してから宿泊のホテルまでではそれらはあまり感じさせませんでした。

中世、神聖ローマ帝国皇帝の選挙や重要儀式が行われたところで、文豪ゲーテの生まれたゲーテハウスがあるといいます。

翌22日はフランクフルトを西に移動して、ラインの真珠とも呼ばれるリューデスハイム(人口9600人)へ。
ライン下りの起点でもあり船に乗る人も多い街。到着が早かったため土産屋のぎっしりと詰まった「つぐみ横丁」では店がオープンしていませんでしたのでウインドウショッピング。

日本人オーナーのワイン工房に入り、本場ドイツワインの試飲。いろいろなワインがあって飲んでみましたが、いろいろとありすぎてどれがいいのやらわからず・・。こちらもワインの産地の塩尻からやってきたので(ドイツは白ワインがメイン)わざわざ買うのもなあ~と重量オーバーになるものは避けました。娘は未成年ですのでぶどうジュースを頂いていました。

リューデスハイムからこの日のメイン企画のライン川下りへと乗船(フェリー)。

実は20数年前に新婚旅行でこのライン河下りのあるロマンチック街道の旅行の懸賞に当たり、申し込む寸前で断念したこともあったのですが、そのコースを娘と旅している不思議さ・・。


ライン川は11月も下旬にもなると寒く霧がまいていて景色が今ひとつだったので、船内(といってもとても広いレストラン)にて私はドイツワインをいただく。
ライン川沿いにいくつもそびえ立つ古城を見ながら下りました。途中、ローレライの急峻な岸壁のある場所ではローレライの音楽が流れ説明が日本語でも流されました。急峻といっても長野県あたりの川の川幅よりもあり、海運が盛んにおこなわれているところですので、むしろ浅瀬で昔は座礁したのでしょうか、思ったよりも急峻な流れではありませんでした。

リューデスハイムからザンクトゴアルハウゼンで下船して船着場前のレストランにて昼食。人数が人数(25人)でぎっしりと日本人客だらけでドイツっぽくなかったのですが、ドイツの料理を堪能しまた。その後はバスにてケルンまで移動となりました。そのころには天候も回復して、ライン川沿いの古城がくっきりと青空のもとに聳え立って見えてとても見事でした。ホントは止まってじっくりと写真撮影したかったのですが、これは後ほどのノイシュバンシュタイン城で満喫できましたが・・。

ケルン大聖堂に着くころには陽も赤みを帯びてきました。ケルン市は人口100万人を超える大都市です。シンボルの大聖堂は世界遺産に1996年に指定されました。157メートルの二つの塔のある大聖堂は一部工事中でしたが、ゴシック建築の重厚感のある塔が天に突き刺さっているという感じでした。

1248年に着工し1880年完成という途方も無い年月をかけて建築されたといいます。08年のポーランドの旅行では教会内の撮影は無理でしたが、今回は自由に撮影できて聖堂内部の様々な色彩をあしらったステンドグラスはその数と色彩、図柄のどれも素晴らしく何枚もカメラにおさめました。南塔は最上階まで登れるというので、娘と登りました。途中、鐘(聖ペトロの鐘:教会のものとしては世界最大)を突くところがありましたが、ちょうど17時までということで、入ろうとしたら制止されてしまい、sorry、sorryと退散。しかし、どこに行ってもあるもので、落書きの多さには困惑してしまいました。娘は最上階にあったコイン(現行ユーロコイン)をいれて圧縮して引き伸ばして記念(?)硬貨を作ってみました。以外とこれがドイツ国内に結構あって何のための記念コインなんだろう?と思ったのですが。結局ユーロをただ潰してしまいました。
最上階から見るケルン郊外は中世の建物と遠くに近代工場も見えたりと絶景でした。

この日ここで事件が!
世界遺産ケルン大聖堂を外から見上げて撮影していると、鎧を着た中世騎士風大道芸人?が写真を一緒にどうですか?と話しかけてきて、こちらも娘の語学の一助にと連れてきたので、片言英語で対抗して撮影してみました。そしたら指を二本立てて何か訴えているのです。どうも二人で2ユーロということで、撮影モデル料ということらしいのです。「2ユーロくらいならまぁいいか」とお支払いし、とても気持ちよく握手して別れたのですが、その後見ていたら、この中世騎士、どこかの外国人に囲まれて(酔っ払い?)所持していた剣をもぎ取られ突き立てられて写真を撮らされていましたが、その方々はとうとうお金は払わずに逃げて行ってしまいました。
添乗員さんにその後聞いてみたら、「それは(2ユーロで済んで)良心的な人に当たりましたね」ということでしたので安心しましたが、しかし、客は撮影してもらって逃げていってしまうとは・・。

ケルンはオーデ「コロン」の語源となったくらいでコロンの発祥地ですので、いくつもある中で娘と試してみて妻に一本購入しましたが、結局娘が所持しております。
さてここからがバスで長旅でまたフランクフルトに戻って連泊となりました。

2012年12月1日土曜日

ドイツ、オーストリア旅行

2012年11月21日からドイツ・オーストリアと娘と旅行してきました。見てきたところをアップしていきます。

団体旅行に娘と参加しました(成田にて)


出発はルフトハンザにて



ロシア?上空一面の雪原に蛇行する川が見えます

機内食は寿司もありましたがいかにもドイツ風、ワインも・・



朝食なのか?耳管の感覚がマヒしていきます・・