娘が渡英して一週間もするとなんだかそれが普通の感覚になりつつありますが、それでもこちらからのメールの返事は忘れた頃にやってきて、それではと先生のブログを見るといろんな事をやっている様子もわかって面白いのですが、今年からはそれまでのオーストラリアからイギリスに変えたために、服装やら緯度が高いため防寒具なども気になりましたが意外と暖かそうで安心。
ところで今回の研修は公立高校での企画ですが、それにしてもその費用は保護者負担ということで、一年生の時から積み立ててきましたが、このご時世ではほんとうに大変なことです。私も議員やっていた時からは何分の一かの給与ですので、妻が働いていなければまた、息子が独立していなければ出せなかったかもしれません。というか出せなかったと思います。
なんとかやってこれているので子どもには心配かけたくありませんし、夫婦で力あわせればなんとかなるものです。
お迎えも私が行き元気な子ども達を見て安心しました。
ところが今回実は娘のクラスメートで参加できなくなってしまった生徒さんがおられました。急病のため出発直前に急遽研修は取りやめになったそうですが、その生徒さんが研修中に急逝してしまったのです。このことは現地にも伝えられ時をおいて先生から知らされ、娘たちは深い悲しみに包まれたそうです。亡くなられた生徒さんにはさぞかし行きたかっただろうし、親御さんの悲しみはさぞかしだったと思います。これから世界に羽ばたこうとしていた直前の出来事に本当に残念に思えて言葉もありません。
後日娘から聞きましたが、現地の高校ではすぐさまメンタルコーディネータが来て対応してくれたそうです。多分常駐しているということで、これはフィンランドの学校でもそうでしたが、世界では当たり前になっているのでしょう。長野県ではやっと数校に一人とかの配置という状況のはずです。日本と海外とのメンタルヘルスへの対応の大きな隔たりを感じます。ご冥福をお祈りします。
2014年3月27日木曜日
2014年3月17日月曜日
娘の海外研修・・1
娘がとうとう高3生にもうすぐなる。春休みに入り英語科の海外研修としてイギリスに旅立たった。10日ほどの行程だが、長期に渡って家にいなくなるので、親としては少々寂しい気もするが、そんなことお構い無しに空港行きの貸切バスに乗っていった。私のほうが妻よりも時間的にフリー(?)なので見送りにいくと、結構他の保護者のみなさんも来ていて(ほとんど母親!)ご挨拶。
今のことなので、娘いわく先生がブログで現地の状況を発信してくださるということなので、全く連絡が取れないわけでもなさそう。
それにしても便利な時代です。スマホの廉価版(W○LLC○M製)でなるべく通信料金を抑えるということで買い与えたが、海外からの電話代は以前私も行ってみた時に、その国の通信会社を介して受発信するのでとんでもない課金が発生する場合があるということで、気をつけていたのですが、(そのためのアプリまである!)娘は必要ならメールするといい、通話はほとんどしてきません。
ホストファミリーのお宅の様子や食事風景などなどとともに、先生のブログでは学校での授業風景も配信されてきて、なんだか国内にいる感じです。
のびのびとクラスメートとやっている様子ですので一安心。
今のことなので、娘いわく先生がブログで現地の状況を発信してくださるということなので、全く連絡が取れないわけでもなさそう。
それにしても便利な時代です。スマホの廉価版(W○LLC○M製)でなるべく通信料金を抑えるということで買い与えたが、海外からの電話代は以前私も行ってみた時に、その国の通信会社を介して受発信するのでとんでもない課金が発生する場合があるということで、気をつけていたのですが、(そのためのアプリまである!)娘は必要ならメールするといい、通話はほとんどしてきません。
ホストファミリーのお宅の様子や食事風景などなどとともに、先生のブログでは学校での授業風景も配信されてきて、なんだか国内にいる感じです。
のびのびとクラスメートとやっている様子ですので一安心。
2014年2月19日水曜日
クラプトンコンサートへ
エリッククラプトンの来日コンサートがあり聴きに出かけた。一昨年来日した時には長男も一緒に行き、一人暮らししている次男の住む名古屋に会いにいくのと合わせて行ったのだが、今回はついてこなかったので一人東京へ。
武道館コンサートで1万人近くはいるのでしょうか?さすがにアリーナ席は取れませんでしたので、結構隅っこの席でしたが、久しぶりにギターサウンドに癒されました。
Tears in heavenがこれまで聞いいていたテンポとは違って軽快なアップテンポな曲に編曲、演奏されていてかえって曲の訳を知っていると悲しくもありました。また、生で聴くWounderful nightは最高の一言です。
Youtubeで最近の彼の演奏を見ると、Tears in Heavenも含めて演奏形式が変わってきていると思いました。
年齢を重ねて今までハチャメチャな生活してきた彼が二度(だったか?)の結婚を経て60代になって新たな子どもを授かって来る中でそれまでの角ばっていたものが取れ、スローハンドがさらに際立っているなあと勝手に感動してました。アンプラグド以降注目してきた彼のアコーステックギターの音色もさることながら、彼のストラトキャスターのトレモロアームを外しているのは有名な話だそうですが、トレモロ多用のギタリストばかりのロックギターの中にあって巨匠なのでしょう。年齢を考えても、もう来日演奏することはないだろうなあと思いつつ都内泊し帰宅。
実はこのところエレキギターでのバロック音楽演奏のYoutube動画を見つけていたのですが、バッハのG線上のアリアやビヴァルディの四季などの作品も素晴らしいアーティスト演奏がアップされていてハマってます。
2013年10月5日土曜日
母の葬儀が終わり
母が他界した。兄とも相談し、母も「質素に質素に」と口癖にしていたこともあり、親戚や同姓の方々をお招きしてのいわゆる近親者のみでの葬儀とした。(僧侶にお経をあげてもらいましたので近親者のみの葬儀ということ。僧侶も呼ばないのを家族葬と言うらしい)
それでも女5人、男3人という8人の兄弟姉妹の大家族にあっての次女で、親戚関係だけでも結構な人数であげられた。平均寿命の性差が約7歳女性が長生きといわれるが、それをそのまま具現化したように、男はすでに全員他界しており、女では初めてということもあって、集まった叔母たちはとても哀しんでいる。
10年前に父が他界した際は仕事が公職であったので、もうえらい人の出入りがあって、子どもたちも幼く、母は世間のことは分からず、すべて父任せという中にあって、大黒柱を失ったという状態だった。
松本から父の病気のために家族みんなで引越し7年、職場も子どもの保育園も変わっての中、縁あって議員選挙に推されて死に物狂いで飛び回ってたので、家の関係は私もほとんど知らず終いであった。
葬儀の準備を一から親戚に聞きながら、目まぐるしくとにかく喪主をこなした。とにかく家族で送ったという感は全くなかった。
妻だって同様、看護師として人の「死」には仕事上何人にも立ち会ってきていただろうが、いざ家族の死と葬式を出すということは初めてだったと思うが、どうにかこうにか「こなす」ことはできた。
日本の葬儀事情がどんどんと変化していく中で、すでに家や公民館で行うというのはほぼなくなり、セレモニーセンターに任せるのが普通になっている。
かつて父は葬式の天ぷら揚げの名手で、常会の方の葬儀の際には率先してやっていたことを思い出すが、そんな風景はとうの昔になくなった。
母は一年はもつとは言われたが、病気が見つかってから半年もなかった命であった。一方で途中からは認知症が進んで、死への恐れのような言葉も出なかったが、最期の瞬間は今度は家族だけに(とくに遠方に単身赴任中の長男にも)見守られて逝ったことは満足だったろうと思いたい。
それでも女5人、男3人という8人の兄弟姉妹の大家族にあっての次女で、親戚関係だけでも結構な人数であげられた。平均寿命の性差が約7歳女性が長生きといわれるが、それをそのまま具現化したように、男はすでに全員他界しており、女では初めてということもあって、集まった叔母たちはとても哀しんでいる。
10年前に父が他界した際は仕事が公職であったので、もうえらい人の出入りがあって、子どもたちも幼く、母は世間のことは分からず、すべて父任せという中にあって、大黒柱を失ったという状態だった。
松本から父の病気のために家族みんなで引越し7年、職場も子どもの保育園も変わっての中、縁あって議員選挙に推されて死に物狂いで飛び回ってたので、家の関係は私もほとんど知らず終いであった。
葬儀の準備を一から親戚に聞きながら、目まぐるしくとにかく喪主をこなした。とにかく家族で送ったという感は全くなかった。
妻だって同様、看護師として人の「死」には仕事上何人にも立ち会ってきていただろうが、いざ家族の死と葬式を出すということは初めてだったと思うが、どうにかこうにか「こなす」ことはできた。
日本の葬儀事情がどんどんと変化していく中で、すでに家や公民館で行うというのはほぼなくなり、セレモニーセンターに任せるのが普通になっている。
かつて父は葬式の天ぷら揚げの名手で、常会の方の葬儀の際には率先してやっていたことを思い出すが、そんな風景はとうの昔になくなった。
母は一年はもつとは言われたが、病気が見つかってから半年もなかった命であった。一方で途中からは認知症が進んで、死への恐れのような言葉も出なかったが、最期の瞬間は今度は家族だけに(とくに遠方に単身赴任中の長男にも)見守られて逝ったことは満足だったろうと思いたい。
2013年9月14日土曜日
初めての大腸ファイバー
初めて大腸ファイバーをやることになった。
50も過ぎるとあちこち欠陥が出やすくなっているし、もう適齢期?ということでやることに。
以前病院勤めの頃はこの検査はやりたくない検査の代表格だったのだが、父も生前「あんな楽な検査ない」と言っていたこともあってやってみたのだが・・・。
先生も昔からの知り合いの先生だし気楽になって申し込んでしまった。
前日からの食事制限はいいとしても、当日の下剤と大量のポカリスェットのような飲料を最低2リットル飲んで腸を洗い流すのには参った。
2リットルのポカリって飲めそうで全然飲めず、検査の試行に待ったがかかってしまったのであるが、私の前の方は4リットル近く飲んだそうですが、どうしたらそんなに飲めるのか?
何度もトイレに行っていると、今度はお尻が痛くなってきそうで・・・。
時間もそれなりに流れて検査パスできる状態にしてもらい、検査台に上がった。
それからは胃カメラなんかよりずっと楽に検査をしていただけました。
胃カメラはゲロゲロ状態で涙ボロボロになって、感受性が高いというか、異物拒絶症なんですねえ。
50も過ぎるとあちこち欠陥が出やすくなっているし、もう適齢期?ということでやることに。
以前病院勤めの頃はこの検査はやりたくない検査の代表格だったのだが、父も生前「あんな楽な検査ない」と言っていたこともあってやってみたのだが・・・。
先生も昔からの知り合いの先生だし気楽になって申し込んでしまった。
前日からの食事制限はいいとしても、当日の下剤と大量のポカリスェットのような飲料を最低2リットル飲んで腸を洗い流すのには参った。
2リットルのポカリって飲めそうで全然飲めず、検査の試行に待ったがかかってしまったのであるが、私の前の方は4リットル近く飲んだそうですが、どうしたらそんなに飲めるのか?
何度もトイレに行っていると、今度はお尻が痛くなってきそうで・・・。
時間もそれなりに流れて検査パスできる状態にしてもらい、検査台に上がった。
それからは胃カメラなんかよりずっと楽に検査をしていただけました。
胃カメラはゲロゲロ状態で涙ボロボロになって、感受性が高いというか、異物拒絶症なんですねえ。
2013年4月5日金曜日
母の精密検査
先日の検査の結果、母は精密検査をすることになった。
どうもCTでは膵臓に「何か」あるということらしく造影によるMRIになった。
検査は午前外来ののちに午後緊急におこなってもらえることになり、その間昼食も摂れないので、母を車に載せて娘の頃過ごした松本市内観光に出た。
ちょうど4月になったばかりで桜の開花にはちょっと早かったが、城山公園から松本城のお掘の桜、松商学園の脇を流れる薄川沿いの桜並木は少しほころびつつある枝も見えたか?
そして母の実家のある島立堀米にも。娘の頃泳いだと言っていた川はもう二十年も三十年も前に工事がなされて、今では昔の清流ではなくなってしまっているが、実家の前も通って奈良井川沿いも通って3時間あまりかけて廻った。
助手席からほころびかけた桜や娘の頃遊んだ川の水面も見えたかどうかわからないが、私の自己満足というか、この10年以上心配ばかりかけて、あまり面倒も看てこなかった罪滅ぼし(にもならないか・・)も込めてもうそう長くはないかもしれない、もう来ることはできないかもしれないと思って廻った。
病院に戻って、早速MRIの部屋に通された、MRIは狭いドーナツ型の機械に入り、結構耳に響く音がするので、本人が怖がったりするため私も入室させてもらった。
結果はすぐに出され、膵体部癌がすでに肝転移しているとのこと、あと一年ほどの命だという。
オペは年齢と近位への転移ということでは無理らしい。抗がん剤を使ってもかえって認知症を悪化させ、苦しむ期間を延長する程度のことで、それも酷なことであり、このまま知らずに過ごしたほうが本人のためと判断した。
膵臓がんは見つかりにくいということ、見つかった時にはすでに手遅れということは以前から知ってはいた。知り合いも何人も亡くなっていった方々もいた。まさか、母がそうなるとは、暫く呆然としていたが、あと1年どうなるかはわからないが、精一杯生きてもらえるようバックアップしなければ等、いろいろと考えながら帰宅した。
どうもCTでは膵臓に「何か」あるということらしく造影によるMRIになった。
検査は午前外来ののちに午後緊急におこなってもらえることになり、その間昼食も摂れないので、母を車に載せて娘の頃過ごした松本市内観光に出た。
ちょうど4月になったばかりで桜の開花にはちょっと早かったが、城山公園から松本城のお掘の桜、松商学園の脇を流れる薄川沿いの桜並木は少しほころびつつある枝も見えたか?
そして母の実家のある島立堀米にも。娘の頃泳いだと言っていた川はもう二十年も三十年も前に工事がなされて、今では昔の清流ではなくなってしまっているが、実家の前も通って奈良井川沿いも通って3時間あまりかけて廻った。
助手席からほころびかけた桜や娘の頃遊んだ川の水面も見えたかどうかわからないが、私の自己満足というか、この10年以上心配ばかりかけて、あまり面倒も看てこなかった罪滅ぼし(にもならないか・・)も込めてもうそう長くはないかもしれない、もう来ることはできないかもしれないと思って廻った。
病院に戻って、早速MRIの部屋に通された、MRIは狭いドーナツ型の機械に入り、結構耳に響く音がするので、本人が怖がったりするため私も入室させてもらった。
結果はすぐに出され、膵体部癌がすでに肝転移しているとのこと、あと一年ほどの命だという。
オペは年齢と近位への転移ということでは無理らしい。抗がん剤を使ってもかえって認知症を悪化させ、苦しむ期間を延長する程度のことで、それも酷なことであり、このまま知らずに過ごしたほうが本人のためと判断した。
膵臓がんは見つかりにくいということ、見つかった時にはすでに手遅れということは以前から知ってはいた。知り合いも何人も亡くなっていった方々もいた。まさか、母がそうなるとは、暫く呆然としていたが、あと1年どうなるかはわからないが、精一杯生きてもらえるようバックアップしなければ等、いろいろと考えながら帰宅した。
2013年2月4日月曜日
母の体調とエンディングノート
母が最近調子が悪い様子で、私の運営しているデイサービスセンターにも行ったり行かなかったりと、やはり体調がすぐれないらしい。
病院を受診しいつもの糖尿の検査もしたりとしていたのだが、どうも変な事(娘のころの話を言い出したり)を言っているので、脳の検査も必要となった。
結局、硬膜外出血で脳圧が上がっているので緊急に手術をしていただくことになった。一ヶ月ほどの入院となりったが、認知症も少しづつ出てきており帰りたいの連発。
しっかりと糖尿の管理もされることになり、インシュリンの自己注射も始まった。これが自分でできるわけではないので、私たちがやってあげなくてはならなくなった。ちょうど私が暇で良かった。毎朝晩と種類とシリンジの単位数がきまっていて、これでは年寄りには無理だと痛感。
以前、病院の検査室で血糖検査の精度と正確さを上げるための検査技師スタッフの中でその担当をしてきたのだが、肝心の患者さんが血糖コントロールの意味(食事療法や運動も含めて)を理解していない(できない)状態にある時には家族がその役を負いきれるのか?実際に病んでいるのは本人なのだが、まわりの家族も居ない場合は訪問看護などもあろうがとても家族ほどやりきれるものではない。そんなことも思いつつ15年も前に辞めた技師魂?か母にはしっかりとコントロールしてあげようとせっせとインシュリンを定期的に打って上げた。
認知症の薬も始まって、これも効果のある人とそうでない人と分かれるようだが、薬効を見ながら処方してくださり、たくさんの様々な種類の薬が三度の食事にいろいろな量で出され、これも困惑気味というか理解ができないらしい。
日付時間の概念もとんと分からなくなっていることもしばしばで、これまでも管理していかなくてはならなくなった。
人は生きていけばいつかは程度の差はあろうがそうなっていくのだと50歳を過ぎて痛切に思うようになった。その時に依拠できる配偶者も含めて家族がいるのか?
今、介護施設の運営をしていて、そういうことができづらい家庭環境にあるお年寄りが多いことに重ねて見えてしまう。
まだ、施設に入れた方々は良いほうで、介護保険が始まったころは「公的介護」と称して家庭から施設介護へとすすんだが、今はまた(経済的に国の財政が「もたない」との理由で)家庭に戻され施設に入れず、看る家族もいなかったり、看れなかったりの家族が家庭にもどされ(とどまらされている)親の面倒を看ることができずにいる方々をよくみかける。すべてが円満には行っていない家庭環境がモロ露呈する人間模様にも遭遇してきた。
人はどうやって生まれ(生まれて来たときはまだ親がいるだろうが)、死ぬときにはどうやって逝くのかその時までは意識がどの程度正常に機能しているのか。近年エンディングノートという、遺書のように自分がもしもの時に備えて備忘録のようなものをつけていくことが奨励されていて、我が施設でも講演会を行ったが、聴衆はかなりのご高齢の方々ばかりであった。私はむしろ定年をもうじき迎える、まだ体力的にも動けたり、脳機能も健全に働いているときにこそ聴いておくべきであると思っている。まだ間に合うから。
病院を受診しいつもの糖尿の検査もしたりとしていたのだが、どうも変な事(娘のころの話を言い出したり)を言っているので、脳の検査も必要となった。
結局、硬膜外出血で脳圧が上がっているので緊急に手術をしていただくことになった。一ヶ月ほどの入院となりったが、認知症も少しづつ出てきており帰りたいの連発。
しっかりと糖尿の管理もされることになり、インシュリンの自己注射も始まった。これが自分でできるわけではないので、私たちがやってあげなくてはならなくなった。ちょうど私が暇で良かった。毎朝晩と種類とシリンジの単位数がきまっていて、これでは年寄りには無理だと痛感。
以前、病院の検査室で血糖検査の精度と正確さを上げるための検査技師スタッフの中でその担当をしてきたのだが、肝心の患者さんが血糖コントロールの意味(食事療法や運動も含めて)を理解していない(できない)状態にある時には家族がその役を負いきれるのか?実際に病んでいるのは本人なのだが、まわりの家族も居ない場合は訪問看護などもあろうがとても家族ほどやりきれるものではない。そんなことも思いつつ15年も前に辞めた技師魂?か母にはしっかりとコントロールしてあげようとせっせとインシュリンを定期的に打って上げた。
認知症の薬も始まって、これも効果のある人とそうでない人と分かれるようだが、薬効を見ながら処方してくださり、たくさんの様々な種類の薬が三度の食事にいろいろな量で出され、これも困惑気味というか理解ができないらしい。
日付時間の概念もとんと分からなくなっていることもしばしばで、これまでも管理していかなくてはならなくなった。
人は生きていけばいつかは程度の差はあろうがそうなっていくのだと50歳を過ぎて痛切に思うようになった。その時に依拠できる配偶者も含めて家族がいるのか?
今、介護施設の運営をしていて、そういうことができづらい家庭環境にあるお年寄りが多いことに重ねて見えてしまう。
まだ、施設に入れた方々は良いほうで、介護保険が始まったころは「公的介護」と称して家庭から施設介護へとすすんだが、今はまた(経済的に国の財政が「もたない」との理由で)家庭に戻され施設に入れず、看る家族もいなかったり、看れなかったりの家族が家庭にもどされ(とどまらされている)親の面倒を看ることができずにいる方々をよくみかける。すべてが円満には行っていない家庭環境がモロ露呈する人間模様にも遭遇してきた。
人はどうやって生まれ(生まれて来たときはまだ親がいるだろうが)、死ぬときにはどうやって逝くのかその時までは意識がどの程度正常に機能しているのか。近年エンディングノートという、遺書のように自分がもしもの時に備えて備忘録のようなものをつけていくことが奨励されていて、我が施設でも講演会を行ったが、聴衆はかなりのご高齢の方々ばかりであった。私はむしろ定年をもうじき迎える、まだ体力的にも動けたり、脳機能も健全に働いているときにこそ聴いておくべきであると思っている。まだ間に合うから。
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