2012年12月4日火曜日

3日目は古城と学都のハイデルベルクからローテンブルクへ

11月23日、フランクフルトのホテルを早朝にバスで出発。約95キロを走ってハイデルベルクに到着。人口は15万人弱、ライン川の支流ネッカー川のほとりに位置するドイツ最古のハイデルベルク大学を擁し、しないにバスで入ると多くの学生と思しき若者がたくさん往来していた。
18世紀からゲーテやショパンといった詩人、芸術家が訪れ作品を生み出した。

なんといってもここは古城ハイデルベルク城が堂々として町を見下ろしている。急傾斜をバスで登ったところから徒歩で入場。城は13世紀頃からプファルツ伯の居城として拡張され、ゴシック、ルネッサンス、バロックなど様々な様式が5世紀の年月の間に建造された。しかし、30年戦争やプファルツ継承戦争や火事で破壊され、廃墟のような状況も見られる。
ワインの大樽のそばには道化師ペオルケの像があり、ガイドからその由来を聞く。

ハイデルベルク城から見下ろすカールテオドール橋がとても印象的。1788年に選帝候カール・テオドールによって建設された重厚感のある200メートルほどの橋で別名アルテブリッケ(古い橋)と呼ばれる。石像と洪水の時の水位を示すメジャー、そして橋の登りてには牢獄だったといわれる古い建造物があった。城から対岸にある哲学者の道を確認できたが、ここはゲーテが散歩したと言われる場所。物思いにふけることができたらしいが?当時はどんなだったのでしょう?

さて、ここに来る道中バスの車窓からなんだか煙(水蒸気?)の立ち上がる、独特な格好の建物が見えました。後でガイドさんに聞くと原発だそうです。海からは遠いのでライン川などの大きな川の水を使っているようです。が、こんなに一般の住民の生活圏の近くにあるとは!

ドイツが日本の福島原発の惨状を受けてすぐに脱原発に転じることがなされたのはこうした住民の生活圏のすぐ近くに原発を作ってしまったからではないかとこの時確信してしまいました。

日本は人里離れた場所にひっそりと隠れるように建設し、そこからロスがあっても送電線を首都圏へとのばしてきました。反対運動を起こしづらいところに目をつけて電力メーカは作ってきました。日本とドイツの違いが垣間見れた瞬間でした。

この話はこのくらいにしておいて、ハイデルベルクを後にして今度は古城街道を東進して、この日の宿泊地のロテンブルクへと175キロ。途中のレストランで昼食を摂って到着したのは夕方でした。ローテンブルクは正式にはRothenburg ob der Tauber(タウバー川の上にあるローテンブルク)といわれ、国内にいくつかローテンブルクがあるといいます。町の起源は9世紀で最初の城壁は12世紀にできあがったとされます。自由都市として栄えたのは17世紀の30年戦争頃までで
、中世の姿を完璧に残した小都市(人口11000人)。
ホテルのあるシュランネン広場に入るとそこは中世。城壁に登るとここを復元した時に寄付を募った折に日本人企業家も協力して名前が刻まれていました。
夕食までの間、町の中をショッピングして歩きました。中世の街並みの店、ウインドウからみてもとても美しい風景で写真愛好家としてはたまりませんでした。娘はこれからクリスマスマーケットの準備が始まる前で賑やかな飾り付けや、有名なお菓子(英語でsnow ball)にありつけてご満悦。(実は私も旨くてはまった)
宿泊は中世の城を改装したシュランネンという広場の真ん前のホテルでした。ホテルの前評判は狭いとかあまりよくないとか酷評されていましたが、私たちの部屋はトリプルを2人で使えたのでとても心地よく過ごせました。
夕食をレストランで摂ってから閉店してもライトアップされたショーウインドウを見てホテルまでの帰路はいろいろと美しく楽しいディスプレイに巡りあえ道草もとても満足しました。(寒かったけど)
夜9時前にはマルクト広場に面した市庁舎、市議宴会館に老若男女が集まり人だかりになっています。ひとつは市庁舎の仕掛け時計マイスタートルンクの人形に注目していました。
夜20、21、22時の正時には仕掛け時計が動き出します。ティリー将軍とヌッシュ市長が現れます。1631年30年戦争の時にローテンブルクを占領した皇帝軍のティリー将軍が市参事会員たちの首をはねることになったけれど、将軍はすすめられたワインをジョッキで一気飲みするものがあればそれをやめるといい、市長がこれを一気に飲み干して事なきを得たという伝説らしいのですが、それが仕掛け時計で演じられているといいます。私達も見てみたけれど、話の筋書きを知っていればよくわかるのだろうが、この時はあまり理解しておらず、????という感じ。
ここに私たちは見ていましたが、近くの飲み屋で飲んでいた中世のコスチュームを着た男性が市議宴会館前で何やら語りを初めました。ドイツ語なのでよくわからないのですが、ローテンブルクの名物おじさんらしく市の観光案内に掲載されていました。ところどころ笑いも入れて、あやしい大道芸人ですが、近くのレストランで飲んでいたのをみてしまったものですから変な感じ。

下の写真はきれいなウインドウのディスプレー(飽きません)。もう一つ下は仕掛け時計。将軍と市長が出てくるところ。

2012年12月2日日曜日

ドイツ リューデスハイム~ケルン大聖堂 ライン川下りの旅

リューデスハイム つぐみ横丁
フランクフルト国際空港の入管では入国の目的が聞かれましたが、「観光です」と娘はなんと答えていたのか心配でしたが、滞おりなく通過。旅行会社のチャーターしたバスでホテルまで送っていただきましたが、時差ボケと空がぼんやりしていて余計にボケボケに。

フランクフルトではニ泊しました。ライン河の支流であるマイン川が流れる都市で、ドイツの商業、金融の中心地と言われています。人口約68万人といいますが、到着してから宿泊のホテルまでではそれらはあまり感じさせませんでした。

中世、神聖ローマ帝国皇帝の選挙や重要儀式が行われたところで、文豪ゲーテの生まれたゲーテハウスがあるといいます。

翌22日はフランクフルトを西に移動して、ラインの真珠とも呼ばれるリューデスハイム(人口9600人)へ。
ライン下りの起点でもあり船に乗る人も多い街。到着が早かったため土産屋のぎっしりと詰まった「つぐみ横丁」では店がオープンしていませんでしたのでウインドウショッピング。

日本人オーナーのワイン工房に入り、本場ドイツワインの試飲。いろいろなワインがあって飲んでみましたが、いろいろとありすぎてどれがいいのやらわからず・・。こちらもワインの産地の塩尻からやってきたので(ドイツは白ワインがメイン)わざわざ買うのもなあ~と重量オーバーになるものは避けました。娘は未成年ですのでぶどうジュースを頂いていました。

リューデスハイムからこの日のメイン企画のライン川下りへと乗船(フェリー)。

実は20数年前に新婚旅行でこのライン河下りのあるロマンチック街道の旅行の懸賞に当たり、申し込む寸前で断念したこともあったのですが、そのコースを娘と旅している不思議さ・・。


ライン川は11月も下旬にもなると寒く霧がまいていて景色が今ひとつだったので、船内(といってもとても広いレストラン)にて私はドイツワインをいただく。
ライン川沿いにいくつもそびえ立つ古城を見ながら下りました。途中、ローレライの急峻な岸壁のある場所ではローレライの音楽が流れ説明が日本語でも流されました。急峻といっても長野県あたりの川の川幅よりもあり、海運が盛んにおこなわれているところですので、むしろ浅瀬で昔は座礁したのでしょうか、思ったよりも急峻な流れではありませんでした。

リューデスハイムからザンクトゴアルハウゼンで下船して船着場前のレストランにて昼食。人数が人数(25人)でぎっしりと日本人客だらけでドイツっぽくなかったのですが、ドイツの料理を堪能しまた。その後はバスにてケルンまで移動となりました。そのころには天候も回復して、ライン川沿いの古城がくっきりと青空のもとに聳え立って見えてとても見事でした。ホントは止まってじっくりと写真撮影したかったのですが、これは後ほどのノイシュバンシュタイン城で満喫できましたが・・。

ケルン大聖堂に着くころには陽も赤みを帯びてきました。ケルン市は人口100万人を超える大都市です。シンボルの大聖堂は世界遺産に1996年に指定されました。157メートルの二つの塔のある大聖堂は一部工事中でしたが、ゴシック建築の重厚感のある塔が天に突き刺さっているという感じでした。

1248年に着工し1880年完成という途方も無い年月をかけて建築されたといいます。08年のポーランドの旅行では教会内の撮影は無理でしたが、今回は自由に撮影できて聖堂内部の様々な色彩をあしらったステンドグラスはその数と色彩、図柄のどれも素晴らしく何枚もカメラにおさめました。南塔は最上階まで登れるというので、娘と登りました。途中、鐘(聖ペトロの鐘:教会のものとしては世界最大)を突くところがありましたが、ちょうど17時までということで、入ろうとしたら制止されてしまい、sorry、sorryと退散。しかし、どこに行ってもあるもので、落書きの多さには困惑してしまいました。娘は最上階にあったコイン(現行ユーロコイン)をいれて圧縮して引き伸ばして記念(?)硬貨を作ってみました。以外とこれがドイツ国内に結構あって何のための記念コインなんだろう?と思ったのですが。結局ユーロをただ潰してしまいました。
最上階から見るケルン郊外は中世の建物と遠くに近代工場も見えたりと絶景でした。

この日ここで事件が!
世界遺産ケルン大聖堂を外から見上げて撮影していると、鎧を着た中世騎士風大道芸人?が写真を一緒にどうですか?と話しかけてきて、こちらも娘の語学の一助にと連れてきたので、片言英語で対抗して撮影してみました。そしたら指を二本立てて何か訴えているのです。どうも二人で2ユーロということで、撮影モデル料ということらしいのです。「2ユーロくらいならまぁいいか」とお支払いし、とても気持ちよく握手して別れたのですが、その後見ていたら、この中世騎士、どこかの外国人に囲まれて(酔っ払い?)所持していた剣をもぎ取られ突き立てられて写真を撮らされていましたが、その方々はとうとうお金は払わずに逃げて行ってしまいました。
添乗員さんにその後聞いてみたら、「それは(2ユーロで済んで)良心的な人に当たりましたね」ということでしたので安心しましたが、しかし、客は撮影してもらって逃げていってしまうとは・・。

ケルンはオーデ「コロン」の語源となったくらいでコロンの発祥地ですので、いくつもある中で娘と試してみて妻に一本購入しましたが、結局娘が所持しております。
さてここからがバスで長旅でまたフランクフルトに戻って連泊となりました。

2012年12月1日土曜日

ドイツ、オーストリア旅行

2012年11月21日からドイツ・オーストリアと娘と旅行してきました。見てきたところをアップしていきます。

団体旅行に娘と参加しました(成田にて)


出発はルフトハンザにて



ロシア?上空一面の雪原に蛇行する川が見えます

機内食は寿司もありましたがいかにもドイツ風、ワインも・・



朝食なのか?耳管の感覚がマヒしていきます・・



2012年8月29日水曜日

我が家のコーギー犬のリキが天国へ




我が家の愛犬のコーギーが熱さのためこのところくたびれている様子だったが、とうとう息絶えてしまった。

父が他界して、娘がとくに寂しがっていて、翌年我が家にやってきたときはまだ生後一ヶ月の幼犬だった。

そんなに大きくはならないだろうと家の中で飼っていたのだが、これがどうして大きくなってきて特に抜け毛に悩まされた。ブラッシングすると毛糸が作れるほど抜けた抜けた!

だいたいがヨーロッパの高緯度に生息している犬だから寒さには強いだろうと、成犬になるころには外に犬小屋をつくって転居したのだが、これが今度は寒がりになっていて、ちょっと可哀想だったけれど、爪切りもさせないので家の廊下もガリガリ状態になってしまい仕方がありませんでした。氷点下10度を越える夜には哀しい声で吠えていました。

それと夏の暑さにも弱くて(獣医曰く「日射病で失神して運び込まれたものもいる」とか)、ここのところぐったりしていましたが、さすがに何も食べられなくなって、血液検査をしたら肝炎になっているとのこと。肝胆道系の酵素が上昇していました。(これって人間の生化学検査機器でやっているんですね)
1週間ほど入院していて、退院許可が出たけれどどのくらいもつか?という状態でした。

家に戻って3日目、仕事から帰ると家の中で布団の上に動かなくなっていて、いちばん面倒を見て遊んでくれた息子が泣きべそになっていました。

うちに来てわずか8年でしたが、子どもたちの成長とともに一緒にいてくれたコーギーでした。
家族みんな何度も噛まれたり、ワンちゃんのしつけ教室のトレーナーまで噛んだりしてやんちゃを通り越していたようでしたが、 生後一ヶ月ほどでブリーダーが売り出してしまうことが問題になっていましたが、そんな中での犠牲者なのかもしれません。

町中でも時折コーギーを連れている人を何人も見かけますが、結構お利口さんで飼い主の後についていくのが普通ですが、そんなこともお構いなしで、先を突っ走って引っ張っていってくれていました。それでいて人懐っこい目で見つめてくれたり、家族と自分の順位をいつも気にしていたり・・・痛かったけど楽しい家族でした。

私のブログの写真はいつまでもこのままでいこうと思います。


2012年8月6日月曜日

Hα線による太陽8月5日

大きなダークフィラメントが見えます。
活発な太陽面。毎日、違った様子が見ることができます。ずっと観ていても飽きません。(ただし炎天下で暑さ対策が必要)
しばらく連続して撮影してみます。


Hα線による太陽8月4日

イメージングソースCCDによる太陽像
1/2インチCCDですので全景が入りませんが(アイピース用レデューサー使ってみましたが、CCD像が悪化するので使えません)、撮影を続けています。

イメージングソースCCDカメラ+registaxによる月

元動画はぼんやりでしたが、registaxで処理するとはっきりとしてきます。7月31日の月