母が他界した。兄とも相談し、母も「質素に質素に」と口癖にしていたこともあり、親戚や同姓の方々をお招きしてのいわゆる近親者のみでの葬儀とした。(僧侶にお経をあげてもらいましたので近親者のみの葬儀ということ。僧侶も呼ばないのを家族葬と言うらしい)
それでも女5人、男3人という8人の兄弟姉妹の大家族にあっての次女で、親戚関係だけでも結構な人数であげられた。平均寿命の性差が約7歳女性が長生きといわれるが、それをそのまま具現化したように、男はすでに全員他界しており、女では初めてということもあって、集まった叔母たちはとても哀しんでいる。
10年前に父が他界した際は仕事が公職であったので、もうえらい人の出入りがあって、子どもたちも幼く、母は世間のことは分からず、すべて父任せという中にあって、大黒柱を失ったという状態だった。
松本から父の病気のために家族みんなで引越し7年、職場も子どもの保育園も変わっての中、縁あって議員選挙に推されて死に物狂いで飛び回ってたので、家の関係は私もほとんど知らず終いであった。
葬儀の準備を一から親戚に聞きながら、目まぐるしくとにかく喪主をこなした。とにかく家族で送ったという感は全くなかった。
妻だって同様、看護師として人の「死」には仕事上何人にも立ち会ってきていただろうが、いざ家族の死と葬式を出すということは初めてだったと思うが、どうにかこうにか「こなす」ことはできた。
日本の葬儀事情がどんどんと変化していく中で、すでに家や公民館で行うというのはほぼなくなり、セレモニーセンターに任せるのが普通になっている。
かつて父は葬式の天ぷら揚げの名手で、常会の方の葬儀の際には率先してやっていたことを思い出すが、そんな風景はとうの昔になくなった。
母は一年はもつとは言われたが、病気が見つかってから半年もなかった命であった。一方で途中からは認知症が進んで、死への恐れのような言葉も出なかったが、最期の瞬間は今度は家族だけに(とくに遠方に単身赴任中の長男にも)見守られて逝ったことは満足だったろうと思いたい。
2013年10月5日土曜日
2013年9月14日土曜日
初めての大腸ファイバー
初めて大腸ファイバーをやることになった。
50も過ぎるとあちこち欠陥が出やすくなっているし、もう適齢期?ということでやることに。
以前病院勤めの頃はこの検査はやりたくない検査の代表格だったのだが、父も生前「あんな楽な検査ない」と言っていたこともあってやってみたのだが・・・。
先生も昔からの知り合いの先生だし気楽になって申し込んでしまった。
前日からの食事制限はいいとしても、当日の下剤と大量のポカリスェットのような飲料を最低2リットル飲んで腸を洗い流すのには参った。
2リットルのポカリって飲めそうで全然飲めず、検査の試行に待ったがかかってしまったのであるが、私の前の方は4リットル近く飲んだそうですが、どうしたらそんなに飲めるのか?
何度もトイレに行っていると、今度はお尻が痛くなってきそうで・・・。
時間もそれなりに流れて検査パスできる状態にしてもらい、検査台に上がった。
それからは胃カメラなんかよりずっと楽に検査をしていただけました。
胃カメラはゲロゲロ状態で涙ボロボロになって、感受性が高いというか、異物拒絶症なんですねえ。
50も過ぎるとあちこち欠陥が出やすくなっているし、もう適齢期?ということでやることに。
以前病院勤めの頃はこの検査はやりたくない検査の代表格だったのだが、父も生前「あんな楽な検査ない」と言っていたこともあってやってみたのだが・・・。
先生も昔からの知り合いの先生だし気楽になって申し込んでしまった。
前日からの食事制限はいいとしても、当日の下剤と大量のポカリスェットのような飲料を最低2リットル飲んで腸を洗い流すのには参った。
2リットルのポカリって飲めそうで全然飲めず、検査の試行に待ったがかかってしまったのであるが、私の前の方は4リットル近く飲んだそうですが、どうしたらそんなに飲めるのか?
何度もトイレに行っていると、今度はお尻が痛くなってきそうで・・・。
時間もそれなりに流れて検査パスできる状態にしてもらい、検査台に上がった。
それからは胃カメラなんかよりずっと楽に検査をしていただけました。
胃カメラはゲロゲロ状態で涙ボロボロになって、感受性が高いというか、異物拒絶症なんですねえ。
2013年4月5日金曜日
母の精密検査
先日の検査の結果、母は精密検査をすることになった。
どうもCTでは膵臓に「何か」あるということらしく造影によるMRIになった。
検査は午前外来ののちに午後緊急におこなってもらえることになり、その間昼食も摂れないので、母を車に載せて娘の頃過ごした松本市内観光に出た。
ちょうど4月になったばかりで桜の開花にはちょっと早かったが、城山公園から松本城のお掘の桜、松商学園の脇を流れる薄川沿いの桜並木は少しほころびつつある枝も見えたか?
そして母の実家のある島立堀米にも。娘の頃泳いだと言っていた川はもう二十年も三十年も前に工事がなされて、今では昔の清流ではなくなってしまっているが、実家の前も通って奈良井川沿いも通って3時間あまりかけて廻った。
助手席からほころびかけた桜や娘の頃遊んだ川の水面も見えたかどうかわからないが、私の自己満足というか、この10年以上心配ばかりかけて、あまり面倒も看てこなかった罪滅ぼし(にもならないか・・)も込めてもうそう長くはないかもしれない、もう来ることはできないかもしれないと思って廻った。
病院に戻って、早速MRIの部屋に通された、MRIは狭いドーナツ型の機械に入り、結構耳に響く音がするので、本人が怖がったりするため私も入室させてもらった。
結果はすぐに出され、膵体部癌がすでに肝転移しているとのこと、あと一年ほどの命だという。
オペは年齢と近位への転移ということでは無理らしい。抗がん剤を使ってもかえって認知症を悪化させ、苦しむ期間を延長する程度のことで、それも酷なことであり、このまま知らずに過ごしたほうが本人のためと判断した。
膵臓がんは見つかりにくいということ、見つかった時にはすでに手遅れということは以前から知ってはいた。知り合いも何人も亡くなっていった方々もいた。まさか、母がそうなるとは、暫く呆然としていたが、あと1年どうなるかはわからないが、精一杯生きてもらえるようバックアップしなければ等、いろいろと考えながら帰宅した。
どうもCTでは膵臓に「何か」あるということらしく造影によるMRIになった。
検査は午前外来ののちに午後緊急におこなってもらえることになり、その間昼食も摂れないので、母を車に載せて娘の頃過ごした松本市内観光に出た。
ちょうど4月になったばかりで桜の開花にはちょっと早かったが、城山公園から松本城のお掘の桜、松商学園の脇を流れる薄川沿いの桜並木は少しほころびつつある枝も見えたか?
そして母の実家のある島立堀米にも。娘の頃泳いだと言っていた川はもう二十年も三十年も前に工事がなされて、今では昔の清流ではなくなってしまっているが、実家の前も通って奈良井川沿いも通って3時間あまりかけて廻った。
助手席からほころびかけた桜や娘の頃遊んだ川の水面も見えたかどうかわからないが、私の自己満足というか、この10年以上心配ばかりかけて、あまり面倒も看てこなかった罪滅ぼし(にもならないか・・)も込めてもうそう長くはないかもしれない、もう来ることはできないかもしれないと思って廻った。
病院に戻って、早速MRIの部屋に通された、MRIは狭いドーナツ型の機械に入り、結構耳に響く音がするので、本人が怖がったりするため私も入室させてもらった。
結果はすぐに出され、膵体部癌がすでに肝転移しているとのこと、あと一年ほどの命だという。
オペは年齢と近位への転移ということでは無理らしい。抗がん剤を使ってもかえって認知症を悪化させ、苦しむ期間を延長する程度のことで、それも酷なことであり、このまま知らずに過ごしたほうが本人のためと判断した。
膵臓がんは見つかりにくいということ、見つかった時にはすでに手遅れということは以前から知ってはいた。知り合いも何人も亡くなっていった方々もいた。まさか、母がそうなるとは、暫く呆然としていたが、あと1年どうなるかはわからないが、精一杯生きてもらえるようバックアップしなければ等、いろいろと考えながら帰宅した。
2013年2月4日月曜日
母の体調とエンディングノート
母が最近調子が悪い様子で、私の運営しているデイサービスセンターにも行ったり行かなかったりと、やはり体調がすぐれないらしい。
病院を受診しいつもの糖尿の検査もしたりとしていたのだが、どうも変な事(娘のころの話を言い出したり)を言っているので、脳の検査も必要となった。
結局、硬膜外出血で脳圧が上がっているので緊急に手術をしていただくことになった。一ヶ月ほどの入院となりったが、認知症も少しづつ出てきており帰りたいの連発。
しっかりと糖尿の管理もされることになり、インシュリンの自己注射も始まった。これが自分でできるわけではないので、私たちがやってあげなくてはならなくなった。ちょうど私が暇で良かった。毎朝晩と種類とシリンジの単位数がきまっていて、これでは年寄りには無理だと痛感。
以前、病院の検査室で血糖検査の精度と正確さを上げるための検査技師スタッフの中でその担当をしてきたのだが、肝心の患者さんが血糖コントロールの意味(食事療法や運動も含めて)を理解していない(できない)状態にある時には家族がその役を負いきれるのか?実際に病んでいるのは本人なのだが、まわりの家族も居ない場合は訪問看護などもあろうがとても家族ほどやりきれるものではない。そんなことも思いつつ15年も前に辞めた技師魂?か母にはしっかりとコントロールしてあげようとせっせとインシュリンを定期的に打って上げた。
認知症の薬も始まって、これも効果のある人とそうでない人と分かれるようだが、薬効を見ながら処方してくださり、たくさんの様々な種類の薬が三度の食事にいろいろな量で出され、これも困惑気味というか理解ができないらしい。
日付時間の概念もとんと分からなくなっていることもしばしばで、これまでも管理していかなくてはならなくなった。
人は生きていけばいつかは程度の差はあろうがそうなっていくのだと50歳を過ぎて痛切に思うようになった。その時に依拠できる配偶者も含めて家族がいるのか?
今、介護施設の運営をしていて、そういうことができづらい家庭環境にあるお年寄りが多いことに重ねて見えてしまう。
まだ、施設に入れた方々は良いほうで、介護保険が始まったころは「公的介護」と称して家庭から施設介護へとすすんだが、今はまた(経済的に国の財政が「もたない」との理由で)家庭に戻され施設に入れず、看る家族もいなかったり、看れなかったりの家族が家庭にもどされ(とどまらされている)親の面倒を看ることができずにいる方々をよくみかける。すべてが円満には行っていない家庭環境がモロ露呈する人間模様にも遭遇してきた。
人はどうやって生まれ(生まれて来たときはまだ親がいるだろうが)、死ぬときにはどうやって逝くのかその時までは意識がどの程度正常に機能しているのか。近年エンディングノートという、遺書のように自分がもしもの時に備えて備忘録のようなものをつけていくことが奨励されていて、我が施設でも講演会を行ったが、聴衆はかなりのご高齢の方々ばかりであった。私はむしろ定年をもうじき迎える、まだ体力的にも動けたり、脳機能も健全に働いているときにこそ聴いておくべきであると思っている。まだ間に合うから。
病院を受診しいつもの糖尿の検査もしたりとしていたのだが、どうも変な事(娘のころの話を言い出したり)を言っているので、脳の検査も必要となった。
結局、硬膜外出血で脳圧が上がっているので緊急に手術をしていただくことになった。一ヶ月ほどの入院となりったが、認知症も少しづつ出てきており帰りたいの連発。
しっかりと糖尿の管理もされることになり、インシュリンの自己注射も始まった。これが自分でできるわけではないので、私たちがやってあげなくてはならなくなった。ちょうど私が暇で良かった。毎朝晩と種類とシリンジの単位数がきまっていて、これでは年寄りには無理だと痛感。
以前、病院の検査室で血糖検査の精度と正確さを上げるための検査技師スタッフの中でその担当をしてきたのだが、肝心の患者さんが血糖コントロールの意味(食事療法や運動も含めて)を理解していない(できない)状態にある時には家族がその役を負いきれるのか?実際に病んでいるのは本人なのだが、まわりの家族も居ない場合は訪問看護などもあろうがとても家族ほどやりきれるものではない。そんなことも思いつつ15年も前に辞めた技師魂?か母にはしっかりとコントロールしてあげようとせっせとインシュリンを定期的に打って上げた。
認知症の薬も始まって、これも効果のある人とそうでない人と分かれるようだが、薬効を見ながら処方してくださり、たくさんの様々な種類の薬が三度の食事にいろいろな量で出され、これも困惑気味というか理解ができないらしい。
日付時間の概念もとんと分からなくなっていることもしばしばで、これまでも管理していかなくてはならなくなった。
人は生きていけばいつかは程度の差はあろうがそうなっていくのだと50歳を過ぎて痛切に思うようになった。その時に依拠できる配偶者も含めて家族がいるのか?
今、介護施設の運営をしていて、そういうことができづらい家庭環境にあるお年寄りが多いことに重ねて見えてしまう。
まだ、施設に入れた方々は良いほうで、介護保険が始まったころは「公的介護」と称して家庭から施設介護へとすすんだが、今はまた(経済的に国の財政が「もたない」との理由で)家庭に戻され施設に入れず、看る家族もいなかったり、看れなかったりの家族が家庭にもどされ(とどまらされている)親の面倒を看ることができずにいる方々をよくみかける。すべてが円満には行っていない家庭環境がモロ露呈する人間模様にも遭遇してきた。
人はどうやって生まれ(生まれて来たときはまだ親がいるだろうが)、死ぬときにはどうやって逝くのかその時までは意識がどの程度正常に機能しているのか。近年エンディングノートという、遺書のように自分がもしもの時に備えて備忘録のようなものをつけていくことが奨励されていて、我が施設でも講演会を行ったが、聴衆はかなりのご高齢の方々ばかりであった。私はむしろ定年をもうじき迎える、まだ体力的にも動けたり、脳機能も健全に働いているときにこそ聴いておくべきであると思っている。まだ間に合うから。
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